猿橋

  〜支間長の約半分の長さの木材を使って

峡谷に橋が架かった〜

杉山俊幸


1.概要


錦帯橋、木曽の桟(現存せず)と共に日本3奇橋と称されている猿橋は、旧甲州街道を横切る桂川の渓谷が最も幅を狭めたところに架けられていた木橋である。昭和59年に架け替えられた現橋は、鉄骨を主要構造材として用い、外側に木版を貼り付けた鉄骨木装構造であるが、見かけ上の構造形態は、1851年当時のものを極力忠実に再現したものとなっている(写真1)。ここでは、1851年当時の旧橋を対象として述べることにする。


 猿橋が最初に架けられたのがいつごろであるかは定かでないが、聖護院道興が残した旅日記「回国雑記」で、猿橋は高くて危険なこと、架け替えの際の奇妙な仕組みに言及していることから、彼がこの地を通過した1486年には既に存在していたと言える1)。木橋であるが故に耐久性に欠けるのは致し方なく、これまでに幾度となく架け替えが行われ、現在に至っている。架け替え等に関する歴史をまとめたのが表1である。


 猿橋は、両岸から差し出された桔木(はねぎ)により支持された橋で、桔橋(はねばし)という構造形式に分類される注1)。桔橋は、橋脚を用いない形式であり、木材が橋の構造材料として用いられていた時代には、主として渓谷地に架橋する場合に採用されていたが、平地でも増水の度に橋脚が流出してしまうような河川には使用されていた。また、吊橋と比べて構造系全体としての剛性が高いことから、交通量の多いところでは吊橋よりも桔橋が架設されていた。しかしながら、川幅が広い場合には巨木が必要で、かつ、工事中の危険も大きいこと,さらには、木材の腐朽のため約20年に1回架け替えが必要となることから、明治時代になると桔橋形式の橋は、木製アーチ橋や鋼橋に架け替えられ、国の名勝指定を受けたものだけが残存しているのが実情である。


猿橋は、前述したように、桂川の渓谷に架かる橋で、橋面は水面上約31mの高さにある。そのため、猿橋の架橋に際して、支間内に橋脚を設けることは決して容易ではなかったはずで、これを何とか解決しようとして考え出されたのが、両岸から桔木を張り出して桁を架け渡そうとする桔橋形式であったと推察される。


2.構造上の特徴


 猿橋の構造形式を具体的に示したのが図1である。桔木と呼ばれる大木の一方を石垣積みの橋台の土中に埋め込み(図1の点線部分)、重石としての石で端部を押さえ、土砂を埋め戻してはね上がりに抵抗するカンチレバー(片持ち梁)にして前方に4段3列桔ね出し注2)、上端に橋桁を架け渡した構造である。橋面は、桔木を岸に向かって斜め下方に埋め込んでいることからキャンバー(上向きの反り)のついた形状となっている。4段目の桔木を設置した後、先端に近い部分と中央よりやや橋台側に枕梁と呼ばれる丸太を橋軸直角方向に置き、橋台側の枕梁の上にさらに角材を積むことにより、継行桁と呼ばれる桁の勾配を調整したようである。行桁と継行桁との上下関係は、行桁を下にし、その上に継行桁を約90cmオーバーラップさせて置き、2つの桁をずれないように金具で締め付けている。継行桁の上に行桁を置くという方法も考えられるが、行桁のキャンバーを確保するためには、行桁を下に置く方が効果的と判断したものと思われる。なお、継行桁は、橋台側端部を約180cm、土中に埋め込んであった。


 行桁にキャンバーをつけることにより、鉛直荷重により生ずる曲げ引張り応力を低減させることができること、また、桁の側面形状に関しては、桁が水平であるよりも上向きに反り(キャンバー)が付いている形状の方が、通行する人々に不安感を与えないことが、構造力学も景観工学もなかった当時、既に経験的に会得され実践されていたことが猿橋を見て伺い知れる。


クレーン等の架設機械もない当時に30mの支間を途中に橋脚を設けずに一気に掛け渡すことは、かなり困難であったであろうし、30m以上もある木材を見つけ出すこと、そしてこれを伐採し運搬してくることもまた、極めて難しい作業であったことは想像に難くない。猿橋の支間長は約30m、行桁の支間長は約13mである(図1参照)。猿橋で使用されていた木材は、最も大きいもので行桁の長さ約16m、一辺約60cmの木材であったため、長さ30m以上の木材を使用するよりもはるかに調達が容易であったといえる。施工面からも、両岸から桔木を張り出し、約16mの行桁を架け渡せばよいことから、30mの丸太を架け渡すよりも施工性ははるかに良かったと言える。


作用する鉛直荷重(等分布荷重)が同じ場合、曲げモーメントにより支間中央に生ずる最大応力、および、たわみが、各々、支間長の2乗、および、4乗に比例して大きくなることが構造力学の公式により知られている。図2は、同じ断面寸法の部材を支間長16mと30mの単純支持桁として使用したときに、同じ大きさの等分布荷重により各断面に生ずる最大曲げ応力(曲げモーメントによる直応力)とたわみを示したものである。なお、同図には、支間30mの場合の支間中央での値で無次元化した値を示してある。図2より、支間長を短くすることが如何に曲げ応力やたわみの減少に効果的であるかが読み取れる。すなわち、何らかの工夫を凝らしてできるだけ支間長を短くすると、桁として使用する木材の断面が小さくて済むことになる。それ故に、長くて均質な大断面部材を調達しにくかった当時としては、桁の支間長を短くできる桔橋形式は構造力学的にも合理的な形式であったといえよう。


 桁として使用する木材の総量が少なくて済むということは、橋台の規模も小さくて済むことにつながるため、トータルコストという経済性の側面からも桔橋形式は望ましいということになろう。


以上、桔橋(カンチレバー)形式を採用することによって橋脚を設けず、かつ、個々の部材寸法が小さくて済むようになっていること、さらには、橋面に反りをつけて構造力学的にも景観的にも理に適ったものとなっていることは、架設された当時の架設・施工技術、使用材料の調達等の諸々の制約条件を、猿橋は実に見事に克服していたことを物語っており、今後、新形式の橋梁を見出していく上で何らかのヒントを与えてくれるのではなかろうか。

注1)桔木は、社寺の軒部分に用いられる肘木(ひじき)に似ていることから、桔橋は肘木橋とも呼ばれる。
注2)明治33年〜昭和56年まで架けられていた橋には、4段3列の桔木が使用されており、これ以前、および、現橋では4段2列の桔木が用いられていたとの記録が残されている。


参考文献 1)大月市教育委員会:名勝猿橋架替修理工事報告書,昭和59年10月.


表1 猿橋の架け替え等の歴史
〜明治5年 18回の架け替え記録が残存。形式はほぼ同じ
明治33年

架け替え

形式変更

桔木⇒2列→3列 [理由:幅員拡大のため]

高欄⇒地覆のない笠木と貫だけの手すりに変更

親柱⇒凝ったものに変更

→昭和25年まで供用

昭和7年3月25日 史蹟名勝天然記念物法により名勝として指定
昭和9年

新猿橋の完成(猿橋の上流側に鋼製アーチ橋を架設)

→道路橋としての使命を終了

昭和27年

架け替え

使用材料⇒極力再利用、再加工し転用したものもあり

[文化財保存修理の基本方針に基づいた結果]

昭和56年

架け替え

(昭和55年度架け替え工事開始 昭和59年7月竣工)

巨大木材の調達困難、維持管理の容易さ、耐久性の確保も考慮

⇒鉄骨を構造材に,外側に木版を貼付(鉄骨木装)

構造形態を嘉永4年(1851年)の姿に変更

i.e. 桔木を3列から2列に

[理由:資料が完備しているため

嘉永出来形帳→寸法、数量の詳細な記述あり


写真1


図1 猿橋の一般図(嘉永4年(1851年)の形状を復元した図)1)


図2 同じ断面寸法の部材を用いた場合の支間長の違いによる
   最大直応力およびたわみの比較
   (支間長30mの場合の支間中央の値で無次元化)


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